2008年05月12日

等価分の代償

 一般的に、音楽というものは音を楽しむためにあるものではあるけれど、ClassicやJazzといった音の世界を探索し追求する世界を実現させるためには、必ず、それを実現させるためだけの『等価分の代償』というものが存在する。

 Jazzの世界では、想像を絶するような苦悩を積み重ねた生涯というのは日常茶飯事だが、Classicの世界で世界レベルで巨匠とされている名演奏の中には、それを感じさせないほど素晴らしい名曲が数多く存在する。

 しかし、何故そのようなサウンドが生まれるのか調べていけば、かならず、それを実現させるためだけの『等価分の代償』というものが存在していたことがわかる。


 その〔等価分の代償で成し得たもの〕は、時として人の生を救うことがある。

 自身の経験値では、その〔『等価分の代償』で成し得たもの〕は、胎児期の巨大なC-PTSDとトラウマで発生した消滅願望から自身を救ったが、それで得られたものは、〔『等価分の代償』で成し得たもの〕から得たものであって、『等価分の代償』出てきている。

 それは、中学生のときに映画館で観た『さよなら銀河鉄道999』のクライマックスシーン(生命維持のための「命のカプセル」が、何で出来ているか?)を思い出させるものであるが、現実的な実際の話、地球環境にある自然の流れを見れば、自然科学の分野で「流体的」という言葉が使われるように、その時々、姿形を変えてはめぐりめぐっている。

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嫌気が差し果てたとき

 なんの物欲もなく、私欲もなく――。その自身の内省にあるものが、何の煩悩も何つなく、人のことを考えて動いたとき、その動きを見た人物が自分がそうであるからといって決め付けられて、初めから嫌だと何度も言っている嫌なものを押し付けられれば誰でも嫌気が指し果てる。

 そんな時、J.S.Bachiの楽曲は、いたずらに感傷に浸る必要もなく、ただ強靭に音を拾って、ただ音色とリズムを見ればよく、それは心地よい。

 厳密に言えば、J.S.Bachiの楽曲は、なんの物欲も私欲もなく、何の煩悩も何一つなく、〔その楽曲内のトーンとリズムだけ〕、という物理のみの極限の世界を深く見て現さなければ、楽曲の良さが出てこない。

 もし、そこに私欲や煩悩が入れば、音の流れが歪んで濁ってしまって、とても聴けない。

 例えば、J.S.Bachiの楽曲には宗教音楽の作品も数多く手がけているが、大きく宗教的感覚に偏った感覚で演奏されたものには、宗教に縁がない者や宗教嫌いの者には(そこに宗教に依存して宗教に頼るご都合な私欲がある分)非常に聴き辛いものとなる。だが、純粋な音楽の世界を現したものであるものは、高山から湧き出た清水のように、非常に澄んでいて美しいので、たとえ大の宗教嫌いでも、物理に根ざしたものが現されてあるので、聴ける。

 その意味で、厳密な聖域であるといえ、清浄の極地でなければ、本来の楽曲の良さが表せない。

 気を使うところは、楽器の物性や特性に気をつけ、トーンとリズムに気遣えばよいだけである。


 勿論、この話は、自分自身が音楽の世界を探求して見ている音楽の世界であって、ある特定人物のものを批評するものではない。いってしまえば、自身の場合、目標があるので極端に厳しくなる。しかし、自身以外のものである場合、自身に無いものや、良いもののほうを優先して評価してしまう傾向にある。

 逆に、自身の目標について(それは生き辛さと対照的に現れるもので、環境ストレスにエントロピーを示せば、その可逆性で、胎児期に形成された修復パターンで、音楽の世界の探求もエントリピーを示すので)、自分自身がそれだけ究極なる世界を探求して見つけたものを現そうとするから、あまりにも目標が高くなってしまうことがよくある。このことから、結果的にラフマニノフがそうだったように、神経衰弱に陥りやすい性質にある。

 少なくとも、自分は、クラシックの世界でやっていけるような教育も受けていないし、サラブレッドでない。天才でもあるわけもない。しかも、自分は胎児期の頃からJazzに音楽のルーツを見ていたから、Jazzばかりしている。

 だから、日頃は良いものを集めて満足しているし、足りないものや無いものを自分で造ったりなどしている。

 また、先に、教育を受けていないという話をしたが、実質は、幼児期から児童期に掛けて幼稚園の担任にピアノを習っていただけにバイブル止まりだったから、一般教育で学ぶ基礎に少し毛が生えた程度のもので、殆どが独学になる。

 教育と一言で言っても、それは学歴とかいったものを言っているわけではなく、楽曲を製作する場合、特に、知識と技術、そしてノウハウといった物理的なところが直接影響してくるものであるんで、これを何も無いところから取得するのは、実にしんどい道のりとなる。

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静を制す

 …というのも、良いものだと、最近は富に思う。

 Chopinの作品といえば、手持ちのSound Dateでは、現在のところ、「Sergei Rachmaninoff」「Vladimir Horowitz」「Claudio Arrau」「アルトゥール・ルービンシュタイン」…といった顔ぶれのものがある。いずれも巨匠クラスのもの。

 一番初めに入手したのは、「Claudio Arrau」のものだったが、入手しにくかった「Sergei Rachmaninoff」のサウンドが手に入るまでは「Vladimir Horowitz」の演奏を好んで聴いていた。「Sergei Rachmaninoff」のデータが入手出来てからは、そればかり好んで聴くようになったが、解釈の仕方や演奏の仕方など、学んだり、鍛えたり、自身を磨いたりするのに、ルービン・シュタインの演奏したものも入手して、定期的に聴くようになった。

 ここ最近は、好んで「Claudio Arrau」を好んで聴くようになった。「Sergei Rachmaninoff」の演奏を好んで聴くとの同じくらいの量になる。

 先日の『なんだね…。』で、名盤の一つとされる、Claudio Arrauの『Chopin : Preludes/Impromptus』という作品集を取り上げらが、もう一つ、『Chopin・Nocturnes - Claudio Arrau』という名盤が手持ちにある。

 「鍵盤の詩人」などと呼ばれて親しまれているFrederic F. Chopin。
ノクターンは美しい旋律と詩的で繊細な情緒溢れる名曲である。

 ロマン派の巨匠で知られるArrauの演奏は、静的で、ゆったりとしたテンポをとり、極めて濃やかなニュアンスに富んだ表情を表しながら、大きなスケールで濃厚なロマンの世界を醸し出している。

 ここでもいたずらに感傷的に浸らず、いたずらに色に走らず、温かみを感じさせる名演奏となっている。

 たとえば、「Nocturnes No.20 in C sharp minor, Op.55 No.2」といった楽曲でも、春の兆しでツララの氷が溶けて水が落ちるように、或いは、雪で埋もれていた大地に雪が溶けて川に流れていくようにも聴こえ、それは静かだか、なぜか暖かい。
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2008年05月11日

偶然の出来事

 前に『ごっつぁんです!』で取り上げた、『ULTRAMAN JAZZ LIVE - Toshiki Nunokawa UJQ』。

 気に入ったナンバーだけWMAをDLするか、アルバムを購入するか迷いに迷った挙句、思い切って購入してみることにしたのが、今朝に到着。悩みに悩んだ末、やっとのことで入手が出来た。

 たまたま見つけたもので「特捜隊の歌」に惹かれて購入したら大当たりだった。

 一般的には、JazzのLive演奏である場合、刺激的な演奏をしてしまいがちなものだが、ナンバーが子供の頃に見て育った特撮のSound TrackをJazzで演奏しているためか、耳あたり、軽くエレガントに納めているので、飽きることなくJazz演奏を聴ける。ジャンルとしてはCool Jazzにあたる。

 『ごっつぁんです!』でも、その凄さは書いたが、全ナンバーを聴くと、誰もが出来ない物凄いことを、いとも簡単にサラッと軽くこなしているのがわかる、度肝を抜かれる名演奏だった。

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2008年05月10日

なんだね…。

 実は、ピアノは幼稚園から習っていても小学校でやめてしまったので、例えば、長調・短調…といったものと、コード展開が繋がっていない。

 というのは、ギターなんかの場合、A、A minor、A minor flat、などのコードや、そこから導けるトニック(コードを形成している単音:単音の流れ)というのはわかる。

 しかし、そこから、長調・短調…といったものとは結びつかず、コードはコード、トニックはトニックで、そのコードの中で可能な単音の流れはわかっていても、それは体で感覚的に覚えているものだから、「じゃあ、ピアノでやりましょうかね」ってことになると、それまでの経験値上、ピアノは楽譜を見てまんま弾いていただけに終わっていて、Fusionで鍵盤をやっていたというのも、メンバー不足の穴埋め担当で、流れで何気なしやっていたから、厳密には、よく繋がっていない。

 DTMで製作してきたというのも、メロディーラインの流れで感覚的に漠然とやってきたものだから、「これじゃ、さすがにまずいよな」ということで、不足分の基礎固めに入っている。

 それまで、流れで感覚的に漠然とやってこられたというのも、おそらくギターで学んだ分が補ってきたんだろうけど、それだけで今までやってきたというのも、ま、笑うよな。

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予期せぬ出来事

 Jazzの場合、例えば、演奏者たちが集まったときに今いるメンバーでちょっとやろうか、なんてことになった場合には、バックで刻む程度のものなら、ピアノのテクニックは必要ない。だから、実際に、自分がVo活動していた頃、ちょっとセッションしようかとなって、メンバーが足りないとき、「ピアノを演奏してくれないか」と勧められたことがある。

 しかし、ある程度の高いレベルが求められた場合には、ピアノは目立ちやすいだけにテクニックが必要となる。

 とくに、DTMでプログラミングして作る場合には、ピアノで良し悪しが決まりやすく、音の効果の運命を左右しやすい。

 ピアノといえば、前に書いたことがあるように、まず、手が大きくて腕力と指の力がなくては、思うように演奏できない良い楽曲が数多くあるので、ピアノを諦めて、手が小さくても演奏が可能なギターに路線を変更した。この時は小学生の頃で、当然、このときには、DTMのプログラミングで音楽が作れるなどとは思っても見ないことである。

 DTMでクリエイターとしてプログラミングする場合、デフォルトで(脳をニュートラルにして)そのサウンドを聴くと、プログラミング上での楽器の音を現すテクニックが必要となる。それを満たさない限り、実際の楽器の演奏によるサウンドと肩を並べることが出来ない。

 リスナーとしての立場で、探索しながら追及して行く過程で、Jazzのサウンドをプログラミングする際に、ピアノの立ち位置や役目や求められる仕事について学ぶ必要があると考察してきたが、究極なる話、ちょっとした〔おかず〕を使うにも、Classicの巨匠並のテクニックがなければ、効率的で且つ合理的な効果を生み出して高いレベルのサウンドを作れないことがわかった。

 このことから、現在、ピアノの音に対する技術を磨くに必要なものを見つけに、音楽の海を泳いで濫作捨ているところである。

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聴力と脳を鍛えるために

 定期的だが、手持ちにある、Alexis Weissenbergの「J.S. Bach:PARTITAS」(二枚組み)を聴いて、すべての音を広い、音の強弱や長さを認識させるようにしている。

 また、これには、左右のピアノの加減の計算等でも訓練に役立つ。

 特に「Partita No1 in B flat major, BWV.825 -Giga」などのUPテンポでの連打する楽曲はラフマニノフの楽曲の音を拾えるようにするための良い訓練になる。

 実はこれをやるには軟くない。しかし、ラフマニノフの精密な楽曲より容易で不可能ではない。

 いわば、聖徳太子に一歩近づけるかなw …と、訓練が必要なときに聴いている。


 実は、このアルバム自体も訓練の賜物で成し得たもので、Alexis Weissenbergといえば、強靭なの努力家で知られ、鋼鉄の音色を持つと謳われている。

 その鋼鉄の音色を強靭な脳と鋼鉄の耳にして聴くわけだが、おかげで音が拾いやすく、分析もしやすく、かなり勉強になる。

 DTMの場合、聴力を鍛えて脳を最大限に鍛えればよいだけだから、腕力や指の力など鍛える必要もなく、鍵盤を叩きすぎて血豆が破けて血を出す必要もないわけで、肉体労働が伴わないだけその分、楽ではある。

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2008年05月09日

音に対する解釈の仕方

 先日、音に対する解釈の仕方でいろいろ捏ねていた事について、実はそれなりのものがあって言っていることであるので、今回はそのことについて考えてみようと思う。

 それは、自分の場合、音楽を、音とリズムとその効果、と物理でとらえるからであって、一途にJazz一筋といっても、たとえば、自身を磨いたり開拓する場合、物事をよく理解するには…となるので、Classic の域まで及んでいるからだ。


 音に対する解釈の仕方は、実は、Classic を聴くことによって学んでいる。

 例えば、最初は聴きやすいものから聴いて、次に同じ楽曲のものを演奏した巨匠たちの演奏を聴く。

 すると様々な解釈があることがわかって、可能とされるものがどれぐらいあって、それぞれがどのようなスケールで演奏されているのかがわかる。

 オーケストラやピアノ協奏曲などは、サウンドの全体図や設計図として見て取れるので、演出面で非常に勉強になり、指揮者の解釈というのもわかるようになる。

 これらによって、様々な計算が出来るようになる。


 そんなことをやってきたから、〔「音楽を演奏している」見た目上の外面の音を演奏している〕のか、〔ある一つの楽曲を通して「自身」や「生」を生かしている〕のか、〔ある一つの楽曲を通して「自身」が見た「環境にあるもの」を描いている〕のか、などといったものもわかるし、〔その時どんな状態で演奏されていたのかもわかる。


 前に、煩悩や欲望などの利己的なものが歪ませて良い結果にならない、といったことがあるが、神聖な聖域を保った状態で演奏されたものは、最大限の威力を発揮する。

 そうったものには、右に出るのを許さず、ある独自の世界を確立し、誰もが認めるものとなる。

 たとえば、Sergei Rachmaninoff(参考:「セルゲイ・ラフマニノフ - Wikipedia」)は、楽器それぞれの物性や現象などを熟知し、トーンとリズムについてよく理解していた上で、楽曲として構築する上で立体的に音を組み立てて、「生」そのものを現していた。それも細々としたところまで、1つ1つ、精密に作られていて、知識や技術にとどまらずノウハウを駆使して生かされてあって落ち度がない。自身のピアノ演奏には、ありのままの自身の生を現している。

 水を現すのが非常にうまいのは、Arturo Benedetti Michelangeliで、頑固にも自身の音楽の世界を確立しようと努力してきた人物であるだけ、「Gspard de la nuit - Ondine」は、聴けば感動してしまうほど、凄すぎる演奏で、おそらく、そこに至るまでは、相当の血の滲む鍛錬の末に成しえたものだと思う。

 以前に、Jazzは「生」を現すもの、といったけれど、Classic でも、それを現しているものがある。

 そういったものには、万物を惹きつけるような強力な力がある。

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2008年05月08日

細かいことだといわれるけれど…

 その細かいことが非常に大きかったりする。

 一般的には、CMでカッコイイと人気があるRon Carterの『It's Time』。

 実は、自分が聴くと、あちこち目が付いて、完全に欲求不満になるのでこのアルバムは入手していない。

 その中で良いナンバーがあったので、(WMAだったけど)仕入れた「Eddy theme」。

 ブルース色が濃いので、初めは、自身の感性を磨くのによいと思ってDLしてみたけれど、ベースで遊びたいロンじぃには、やはり、ピアノはハンコック兄ぃレベルじゃなきゃ厳しいね…。

 ピアノをハンコック兄ぃにメンバー入れ替えて再リリースしたら、欲しい一枚。

 これに、CM Verでは、drにアート・ブレイキーの親父さん入れたら、「そこの兄ちゃん、パーカッションしろや」に止まらず「お前らも付き合え」ということになり、『チェニジアの夜』ばりに、そりゃ凄いことになっただろう。

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時には脳を休ませて…

 音楽の海の中で泳いでいる状態のままでいるのもいいかな…w。…などと思う。

 言わば、音楽の海の中で自身の内在している体内時計を見ながら、泳いでいくというもの。

 そうやっているうちに再生され再構築している機能が出てくるかもしれない。

 何てったって、生物の構造とはそんなものだから。

 人体のシステムでは睡眠で得られる現象がこれに当たる。
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2008年05月07日

それは、悲しい話。

 1930年代には、上手いのが溢れるほどゴロゴロいたわけで、相場は、1930〜50年代、ギリギリで60年代頃まで活躍していた演奏者。

 例えば、大御所の現在のメンバーのもので賞を取ったものを聴いても、当時に比べれば天と地の差がある。

 例えば、『Count Basie』(参考:「 カウント・ベイシー - Wikipedia」)もそうで、『Duke Ellington』(参考:「デューク・エリントン - Wikipedia」)もそうで、《黄金の全盛期時代》は、とかく凄い。

 Fats Wallerなんかは、映画の中でしか見たことがないから、30年代前後の実際の演奏を聴くと、そんなに上手かったのか、と、驚いてしまうほどだ。

 それは、JAZZがポピュラーだった頃と現在は違うから、生存競争が当時のように激しくない分だけ、というのもあるだろうけど、何といっても、JAZZはBluesなんかは特に躁鬱の結晶みたいなものだから、そのリズムも、トーンも、あの深みも、何度も血反吐を吐くような、辛い思いや、苦労しなきゃ、出ないところっていうのもある。

 それも、不条理に足で踏み潰されて生きなきゃならないような環境でなければ発生しない躁鬱の結晶だから、これが出来るっていうのは、それだけ、そんな思いをして生きてきたということになる。

 今の世代は、幸せすぎて、特有のあの性質は、絶えてしまったのかもしれない…。

 けれど、それはヒトにとっては、幸運な環境で生きてきたという現われの話なわけで、生み出す人材がいなくても、幸福な状態であることが良いに決まっているわけで、技術が発達しているから、今では、先人たちの残したものが聴ける。だから、物理的には、支障はない。

 しかし、気になる話…。ヒトは幸運な環境になるほど、野生の世界のように生存競争などで受ける選択圧がない環境で、自由に振舞うことが出来るようになるほど、何か大切なものを失っていっているような気がする。
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なんだかなぁ…

 リサーチしているときに、JAZZ愛好家が増えたのがわかったので、何気なく調べて、リンクに追加してみた。

 DLで挙げていたところで嘆いていたら、休んでいる間に、いつの間にか、愛好家が増えていた。活動場所というのもあるらしい。

 けど、活動していたと当時、セクハラまともに受けての人間関係で嫌な思いをしてセミプロやめたんで、とても活動したいという気になれない。

 ま、お水の世界だからねぇ…。いろいろあるさ、って話で。(これ以上の話は、一気に、気が重くなりすぎるから省略。)


 とりあえず、DLサイトを挙げてみたけど、なんだかなぁ…。

 試しに挙げてみても、制作意欲は完全に下落中。

 これもすべては経験値から来るものであったりする。


 ただ、JAZZ愛好家が増えるとデータも入手しやすいので、それは幸運だと思う。
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それはわがままかもしれないけど

 音楽についてだけは譲れないというものがある。

 Jazzが心の拠り所(避暑地)になっているというのも事実で、そんなときは、無意識にトーンとリズムの探索に、音楽の海の中で泳いでいる状態でいる。

 やっていることは、完全な非営利でコストを掛けながら追求していることあって、その意味では、稼がない分、わがままとは思う。(というのは、相場は、市場のシェアがないと思っていたが、今の段階でわからなくなってきた。だからといって、営利目的で考えると、いきなりやる気をなくしてしまうのは何故だろう?>苦笑)

 正直に言えば、営利目的で音楽をしたくない。それは、純粋にその世界を心行くまで探索して追及したいからだ。これもある意味、わがままだとは思う。

 それはSoulに関係していることだから、で、Soulに関係していることである場合、必ず非営利目的で活動している。それも、『生の根源』を追って探索しては何かを獲得しようとして追求しては、作品を制作しているんで、ある意味「神聖な聖域」とでも言うべきか、それを、目先の営利目的で歪を生みたくないし、欲望がらみに至ると良い結果にはならないからだ。

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2008年05月03日

Jazz は、奥が深い

 リサーチ上で、いろいろとSound Dataを聴いているが、結局、落ち着くところは、典型的なJazzに至る。

 普段は、世界レベルのスケールで、できるだけ良いものをチョイスしては聴いているから、必然的に良いものばかりで、体内時計の違いや物性の違いで自分には出来ないものもざらにあるからか、自分はこれでいいんじゃないかとも思うようになる。

 それは、既にそれで頑張っている人がいて、自分にないものを満たしてくれるからであり、それなら、自分が出来ることで自分にしか出来ないことをやってしまおう、と考えるからだ。

 少なくとも、頂点に立つことを望みとして音楽をやってきたわけではなかった。生まれ育った貧困家庭から生じたDV環境で、生きていくための心の拠り所としていたのが音楽だったからで、演奏することでも「生」を生み出すことが可能であることを、3歳ながらも『Tom & Jerrey』を見てとったからだった。

 突き詰めてみれば、それは生まれてから幼児期に見つけて以来、ずっと一つのものを追ってきたような気がする。気がつけば「Classic=神聖」で「Jazz=生」になっていた。それは相対的に位置するものと認識しているが、切っ掛けは『Tom & Jerry』である。気がついたのは、中学生の頃だったと思う。

 誰だったか忘れたが、「Jazz=生」そのものだと言っていたJazzの演奏家がいた。そのコメントを見たときには既にそうなっていたから、その意味が痛いほどわかったのを覚えている。
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ごっつぁんです!

 と、聴けば、毎回、そう思ってしまう、『ウルトラマンjazz〜live〜 - 布川俊樹』。

 聴くたびに、アドレナリンを大量放出してしまう、この布川俊樹『ウルトラマンジャズ』プロジェクト。

 御馴染みのウルトラマンのナンバーがモダンジャズに、と見事に変身!(注:3分しかもたないということはない。最長演奏時間は、10分30秒)

 こういうのを聴くと「頭が上がりません」状態になる。

 まるでチャーリー・パーカーのプレイ初め当初の姿になるのは言うまでもない。


 というのは、スタンダードスタイルのものをそのまま演奏するのは、
本当は日本人にはスタンダードスタイルのsuwingや4beatものは非常に難しいもの。しかし、Jazzはスタイルが幅広いので、それでも、案外、容易といえる。なぜなら、そこは、「Chick Corea」スタイルのように応用が出来るのだから、考えようでは容易と言える。

 しかし、日本特有のリズムとトーンのナンバーをJazzのスタイルに置き換えるというのは、難解度が非常に高いわけで、いわば、美空ひばりさんの『柔』なんかをJazzのスタイルに置き換えるようなもの。

 ここまでやれるというのは、凄い。

 逆に、自分もここまで出来たらいいな、と思う。なぜかといえば、自身の国籍特有の要素というのは、音楽性においての個性のエッセンスになるからで、二番煎じじゃ、面白くない。そこに独自の個性がなければ魅力がないとも思う。少なくとも、リスナーの立場だとそんなものだと思うからだ。

 ここで、また、ちょっとした目標。


 あー。ごっつぁんです。
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2008年05月01日

究極なる話

 「高校時代に好んで聴いていたもの」「ルーツを探る…!?」「
体内時計を探る」と見てきたけれども、「自分らしさとは」でも自身の性質と言うものを知っているあたり、自分らしい独自のベースというのは「ボトムライン−トリオものを製作する場合」で取り上げたものが一番しっくりいくものであることはわかってはいた。

 しかし、Jazzを行う場合、一番目立つのがPianoであるので、DTMで製作する場合には、必然的にPianoの技術を高めなければならなくなる。

 本来は、ピアノとベースとドラムで一つのベースとなるラインが築けるのだが、聴いた感じでは、ピアノとベースは相対的な位置するらしく、ドラムが統計して締めている形をとって成しているように聴こえる。

 だから、ベースとなる型は決まっていても、ピアノの場合は特に、発想転換のパターンをいくつも持っていなければ行き詰まってくるものであるし、ラインに従って対応するようにしなければらなないが、何といっても、ピアノといえば音数が多いだけあって、パターンが多く存在するから、ピアノだけでもパーツのパターンをいくつも作るには、非常に時間が掛かる。

 基本的には、「Red Garland(p) - Poul Chambers(b) - Arthur Taylor(dr)」のユニットをベースとしたサウンドが一番しっくりと行くもので、自己のベストにあたる。

 しかし、Jazzは常に環境に対応しながら進化しつづけなければならないジャンルのものであるので、先人が築き上げたもののまま甘んじるわけにも行かない。何故なら、それがJazzの性質だからであり、それがJazzの演奏者が背負わなければならない運命だからだ。


 究極なる話、突き詰めていけば、発想転換の天才である「Chick Corea」と環境に対応する能力の天才である「Herbie Hancock」を併せ持つことが必須だと考えている。

 逆に言えば、究極なるレベルを求めてしまえば、どちらが掛けてもいけないもので、Pianoには必須となる要素だと考えている。

 しかし、そうやって計算して解を求めるのは簡単だが、実際にそれを実現するのは、とんでもなく難しいことである。

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posted by crossover at 00:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 取り留めのない戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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