2008年10月26日

神経系の情報伝達での量子力学的作用はこんなもの

 重度のC-PTSDや重度の性機能障害があるとよくわかる話。

 ラフマニノフの『Piano Sonata No.2 in B-Flat Minor, Op.36-3』は、脳と神経系の情報伝達での量子力学的作用はこんなものであることがわかる。

 音の1つ1つがフィードバックされるであろう記憶因子や、五感を通してのそれぞれの情報による刺激因子だとすると、それが脳内で引き起こった情報を脳の理論計算される演算処理は、ちょうど今このブログのBGMに取り上げているような状態になる。

 ちょうどリアルタイムといおうか、実際に、物理上の物理の発生や処理状態というのは目まぐるしい速度で展開する。つまりは短い時間で凄まじい現象が起きているという事で…。それで、容易に重度に至りやすい。

 ラフマニノフがこれを現せたのは、神経衰弱に至るまでのものをもっていたから成せた技だと思う。だから、自分にとってはラフマニノフのものに対する価値の意味合いがとても深い。

 つまりは、同じ傾向にあるから、自身の持っている性質をよく知ることもできるし、より深く理解し、物理上で発生する〔物理のリスク計算〕や〔対応の方法〕も試算できるので、アセスメントもできるという意味で、言わば、ただの楽曲としてみていないという話となる。

 所謂、脳・神経系の生理上の神経障害を見る場合と仮定した場合、参考になりそうな具体的な実例があるとわかりやすい、といった流れを話している。即ち、この話はあくまでも自分には発生するリスクとして、その物理現象を直視するのに、良いサンプルになる。

 従って、どれがあるとか、どれがないとか、そんな意味合いではない、これは物理の話となる。だから、要は、この記事を読んでいるそれそれ皆さんがこれについてどう理解しているかにあるが、もし、それを理解できているなら、誰がどうとかじゃなくて、リスクに対する問題点が浮かび上がってくると思う。

 例えば、性機能障害といったものにもいろいろあるが、その一例として、性嫌悪症といったものがある。極端な性嫌悪症である場合、PTSDが原因となっていることが多い。この為、産婦人科系では治療が難しいとされる。

 極端な性嫌悪症とはどんな障害が出るのかといえば、嫌悪から拒絶したり、強健反射で拒絶する事の他に、頭痛・吐き気・胃腸の痛みが引き起こされる。それも、ほんのちょっとした環境や、画像や文面など、ほんのちょっとした情報で、その障害が生じる。だから、私生活に影響が出る障害で、心身では、とても大きな苦痛が生じる。

 こういった極端な性嫌悪症や性行為を行えない性機能障害を持つ重度の障害をもっていた場合、なぜ治療が難しいといえば、心因性のものや性虐待などの経験などから外傷を受けたために生じたPTSDが原因となっている場合には、多方面の分野によるノウハウが必要となることにある。

 しかし、実のところ臨床系と産婦人科の研究過程は統合されておらず、別々となっており、まだ治療に対応できるほどの総合的な研究は行われておらず、治療のための研究は進んでいない。

 だから、例えば、産婦人科系で扱う治療が、原因がPTSDだったとすると、分野外だから治療が難しくなるし、臨床系は生体構造の成り立ちに詳しいわけじゃないから、薬物投与した際に、性機能障害を引き起こしやすくなったり、ヘルニアなどの脊髄神経系の疾患に悪影響を及ぼしたりする。

 即ち、ここで取り上げている内容は、主観的判断ではなく、物理を示している。主観的判断ではなく、障害が発生するリスクに関して取り上げている。

 もしそれが主観だというのなら、神経性の障害がどんなものかが理解できていないという話になる。何もわかってないといっても過言ではない。障害というのは、身体的苦痛を伴わせるものであって、それは生体の構造上の生理で、免疫や自律神経にも障害の影響を与える。だから、頭痛や吐き気や胃腸まで痛くなるといった、障害がでるわけであって、それを大まかに〔神経性障害〕という。そういった現象の話をしているわけであって、ここまで説明しなければわかならければ、そもそもそこまでリサーチもせずに、決め付けているという話になる。

 因みに、臨床系の医療には音楽療法という方法も取られている。こういった治療が困難なケースである場合には、音楽治療と認知行動療法を同時に取り入れるという対処法も可能だ。

 例えば、今BGMに取り上げているラフマニノフの『Piano Sonata No.2 in B-Flat Minor, Op.36-3』は良い材料になる。

 音のきれいさやクリーンさは、生理といった至って物理的な作用を表したものと仮定して考えると、実に医学的かつ工学的な考察ができ、物事の成り立ちの理解を深める事ができる。 − このように考えれば、生理上の神経系の障害があっても、幾分かは楽に過ごせる。

 何故そのように考えるのかといえば、重度のC-PTSDや重度の性機能障害(性嫌悪症も含む)がフラッシュバックで引き起こる作用による現象とちょうど似ているからにある。

 あぁ、しんどいね、と…。

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2008年10月19日

自分が観る『Chopin』

 んー。なんだね…。これは気分転換に生じた「取り留めのない戯言」当たる。

 たまたま精神気象がアンダーになっていた時に、たまたまANIMAXで放送されている『のだめカンタービレ』を見てしまった場合、どうしても音楽を聴いてしまうから、「んー。ガァー。そこはそうじゃなくてね」なんて、解釈についてフラストレーションが溜まるのは自分だけかもしれない。もっとも、バリウマである場合、ギャラや使用量が半端でないので、予算制限がある…ってのもあるのはわかっている。だから、理想に近づけることは難しいというのもわかっている。…というより、既存のデータの音響使用量を支払ったほうが安いんでないか?…などと考えないでもないが…。ま、そんなわけで、特にアコースティックものの音楽の題材は特に難しいよね…と思う。

 何故このような考察に陥るのかは、それは〔芝居に関わった経験値があること〕と、〔元は経済学畑だったから〕ついつい考えてしまうのだろうな…。

 しかし、そう考えると、エピソードの流れを考えてみれば、第一線で活躍する音楽家を何度も起用する設定について前々から引っかかっていたんだが、やはり「理事長は講師のギャラをちゃんと考えて設定してないよな」なんて突っ込みを入れたくなるのは自分だけか? 無論、無料と同等の活動は音楽家にはあるが、仕事だよね、と考えると「価値が高いだけギャラいるでしょ」って話になる。だけど、音楽家が理事する音大となれば、それなりにレベルはいるよな、ってことで、ま…、音楽の技術やコストを考えれば、どえらいパラドックスが生じる。


 実際のところは、音大に行っていないから、音楽理論とかいったものはわからないので、大したことは言えないが、何となくね…といった自身なりの解釈がある。


 それでなくても、随分と、うだうだと戯言を吐いているんで、そんなにClassicが好きなのかと聞かれれば、そういうわけでもなく、実際のところは、体内時計によく馴染む音楽なら何でも聴いている。そういう傾向であったため、Jazzの方をより好んだ。(経済的な問題もあったので幼児期のときに既に諦めていたが、幼児期の頃からClassicよりもJAZZの演奏をしたかったから考えてなかったというのもある。)


 その時の気持ち、CziffraのChopinが聴きたいな…♪を切っ掛けに、気分転換に〔自分が観る『Chopin』〕を追ってみた。

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2008年09月08日

Sergei Rachmaninoff

 前回の『自分の感覚がおかしいのだろうか?』より。

 ここで「ラフマニノフの楽曲の音楽性を理解していない」としたのは、それなりの理由がある。

### UpDete ###
セルゲイ・ラフマニノフ - Wikipedia
Sergei Rachmaninoff - Wikipedia, the free encyclopedia

 ラフマニノフは音楽理論は元より、楽器の物性を深く理解した上で精密に作られている。それは一般的な工学的な試みだから、従来の楽曲のような扱いでは楽曲が崩れてしまい易く、構造工学や機械工学のように複雑に作られているが、精密であって、一切の無駄がない。

 自分の認識では、ラフマニノフは、〔音楽の工学博士〕で複雑系の〔サウンド設計技術者〕+〔サウンド開発技術者〕+〔生産工学技術者〕にあたり、ノウハウ面において、それは高次元の存在に当たる。

 自分がラフマニノフをリサーチしていると、イメージ的には下記のようなものに見えてしまう。

### sample ###
Climate Change 2
 <4>〜<6>の本書。
Climate Change
 <19>〜<21>の本書。

 しかし、原理的には自分と同じパターンで、似通っている事から、とても掴みやすい。自分がラフマニノフに拘っているのは、サウンドの究極の世界を見ているのに対し、自身の音楽性で神経衰弱を患って立ち直った偉大な人物であるからだと思う。 


 おそらく自分は、音楽という簡易的な世界に固執せず、生物として本能的に物理に根ざしたもの…例えば、医学・生物学から物理学・工学といったような流れ上で、大自然や大宇宙を〔トーンとリズム〕を深く理解するように勤め、大自然や大宇宙へ帰依するように五感で〔体感〕し、ノウハウを獲得しようとしているのかもしれない。

 ただ言える事は、DV環境で胎児期には既に被虐待児二世に至ってしまった自身にとって、心地よい〔トーンとリズム〕を体感させ、回復させたものが音楽で、もし、それがなければ、現行にあるような脳神経系のシステムは構築されず、C-PTSDに関する障害から発達障害や精神疾患や心身症などに対応できないまま、酷い障害を抱えていたと考えられる。

 ラフマニノフがその道の先駆者だったのは、究極の音楽の世界を物理で深く追求しているその質量でわかる。つまり、生死に関わるような生存危機を体感している中でサウンドに救われなければ、究極のサウンドの世界を求めもしないし、その次元を感知する事が出来ないからにある。いわば、自分もその類に漏れない。

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2008年09月07日

理想郷はあるんだね…

 それは、手元にあった「Cziffra : List - Douze Etudes D' Execution Transcendante」から始まった。

 そもそもの切っ掛けは、Cziffraの演奏を聴いたのも、Cziffraの演奏を探したのも、自分に欠けていたものを補充するためのものだった。それは、自身が幼児期までに得られなかった〔父性愛に相当する何か〕に相当する〔サウンドに表した物〕なのかもしれないと脳裏をよぎった事にあった。


 日頃は、聴きたい時に聴いていただけだが、Lisztを完全に自身のものにしているCziffraがどんな演奏家か疑問に思ったので調べてみた。平たく言えば、音楽を演奏しているというタイプのものではなく自身そのものにしているという凄さがあったからだ。

 それは、巨匠の演奏を大概聴いてきたから言える話で、一般的には個人が持つ音楽性のセンスを軸に自身全体が表される。しかし、自身の体の一部を表すようなそのような演奏の仕方をしているのはまずなかったからだ。

 Wkiによれば、Cziffra(参考:『Georges Cziffra - Wikipedia, the free encyclopedia』)は、Lisztの音楽院に通っていたらしいが、音楽性に関することはあまり挙げられていなかったので、YouTubeで調べてみると、Cziffraは知識や技量を高く持つだけでなく、音とリズムに対するバランス感覚が非常に良い…といった、凄過ぎる演奏家である事が分かった。


 但し、ここで言う意味合いは、自分はJAZZ畑であってClassic畑ではないので、学術や技量といった基礎として見ているだけで、DTMクリエーターだからそこは工学的に考える。

 つまり、言葉を言い換えれば、下記に示してきたような『Chic Corea Akoustic Band』 レベルの演奏が可能になるという、原理的な因子にあたる。

### 関連記事 ###
John Patitucciのように泳いでみたい
世の中とんでもない「バリうま」さんがいるものだね…

 つまりは、『Chic Corea Akoustic Band』 レベルの演奏はそれだけハイレベルの域であって、それだけのノウハウ構築の下積みが必要だという話で、ここに取り上げるサウンドは1つの楽曲を1つのサウンドに仕上げているだけだが、これを『Chic Corea Akoustic Band』のメンバーの場合は、即興で演奏しているという凄さがある。

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2008年09月03日

John Patitucciのように泳いでみたい

 『Jazz Drams』の続きでリサーチ中にわかった話で、『世の中とんでもない「バリうま」さんがいるものだね…』の前に見つけたものに当たるが、John Patitucciは感覚で魚のように泳ぐ種のベーシストであるらしい。

 それはエレクトリックを扱っても変わらない。Marcus Millerがテクニック重視でテクニックを駆使してトーンとリズムの境地を追求しているのに対し、John Patitucciはトーンとリズムの波の中を魚のように自由に泳ぐことを意としている、(勿論、Jazzの基礎的な知識や技術は非常に高くノウハウも高度だか)天性で演奏しているJazzBassのアマデウスと言える。

### ELEKTRIC ###
John Patitucci - Bertha's Bop
Bass Lesson - Playing off the Bass Drum
Patitucci great electric solo
John Patitucci Dave Weckl CHICK COREA ELEKTRIC BAND

### Akoustic ###
Chic Corea Akoustic Band - How Deep Is The Ocean
Chick Corea Akoustic Band - humpty dumpty
Chick Corea Akoustic Band - Round Midnight


 下記のものは、後に、やっと見つけたデータにあたるが、アルバムにリリースされた『Alive』当事のもので、その頃は、NHK BS2でライブ演奏が放送された1992年前後に活動していた「GRP All-Star Big Band.」に参加していた当事のものにあたる。

### Sample ###
Chick Corea Akoustic Band

 こんな風に演奏できたらさぞ幸福だろうな…と思う。

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2008年08月29日

世の中とんでもない「バリうま」さんがいるものだね…

 『Jazz Drams』の続きでリサーチ中にわかった話。

 半年以上前の事だったか、Dave weckl Band のアルバムを視聴した当事、メンバーの力量不足で、リーダー作は冴えないな…と思っていたが、やはり探せばあるところにあるんだね。全アルバムを視聴してぱっとしなかったもので、固定化してしまったが、ごめん。訂正する。LIVEで良いのがあった。

 メンバー編成上でバランスがよいと、実力以上に良いサウンドに仕上がる。アルバムとは大きな違いだ。アルバムでのメンバーは必ずしも望ましいメンバーが揃っているとは限らないわけで、やはり、バランスよく揃うと、非常に完成度が高いサウンドが形成される。


 それは、リサーチを行っている流れの中でのことだから、最近のJazzはこんな感じなんだね…と下記を聴いていた。

### 聴いていた物 ###
Dave weckl Band - The Chicken

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叔父貴の音楽性

 自分の叔父貴、即ち、母の末の弟はかつてHONDAの整備士をしながらアルトサックス奏者をしていた。自分が11歳の頃に音楽性の問題かな心身症が原因で自殺してしまったが、叔父貴は「サックスは歌心がなければ駄目だ」といつも言って、練習中はボーカルパートを演奏していた。

 叔父貴の話を聞いていた子供時分は、叔父貴も自分のように音楽の真髄を追い求めていると子供ながら理解したし、アルトサックスという楽器では叔父貴の言うとおりで妥当なものだろうと考えた。

 それは叔父貴の説を丸鵜呑みをしているわけではなく、それはポイントに当たるもので、今考えてみても、確かに、アルトサックスの性質から究極を求めれば「歌心」になる。

 しかし、早いうちに死んでしまったから、叔父貴の師としている演奏家が誰かは知らない。だから、サックス奏者のサウンドデータを聞くと自然に叔父貴を見て叔父貴が求めていたものを追い求めてしまうことがある。例えば、「こんな演奏がしたかったのかな?」とか、「こんな音楽性を求めていたのかな?」とか、叔父貴が生前に思い描いてきた音楽性について探索するという傾向を示すものにあたる。

 たぶんに、デクスター・ゴードンよりチャーリー・パーカーあたりが好きだったんじゃないかと思う。最近のものでは、The YellowjacketsのMarc Russo、Everette Harpあたりになるんじゃなかろうかと思う。

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2008年08月25日

Jazz Drams

 DTM製作する過程上の話では、Jazzのドラムのパートは、セミプロ当事に地元のプロ中の大御所で体感で学んだので、オーソドックスなプレイは学んでいるので、その経験値を元に製作している。

 ずっとスタンダードや古典ものに関わるというのもしんどいもので、ビバップやハードバップがしたくなるのは、認知行動上では、Jazzの歴史の流れに沿っている、と言えるのかもしれない。

 毎回思うのが、Jazzの名曲としてオムニバスで挙がっているようなスタンダードな名曲程度は、やろうと思えば出来るんだけど、何分、腰が重くて製作し切れていない。

 Jazzのドラムのパートについては、20歳になりたての頃、Fusionバンドで活動した頃に出会った「Dave Weckl小僧(地元の工大生)」にウンチクを教えてもらった事が切っ掛けで、その学習が利点となって、セミプロ当事はドラムパートの技術を見て覚えた。

 DTM製作の過程では、ドラムパートのレベルをUPしようと考えれば、「Dave Weckl」の技術が欲しいところ…。そんなことから、気が向いたときにYou Tubeの映像や手持ちのSound dateを元に、そこそこ独学中。

### Date Base ###
Dave Weckl - Wikipedia, the free encyclopedia
Dave Weckl - Wikipédia, a enciclopédia livre

 そんな中で毎回思うところ。ウェックルのドラムには、やはり、パティトッチのベースがとてもマッチして最高なんだけれど、何分、データが少ない。

 ラロ・シフリンの「マニックス」のような当事のオリジナルサウンドと同類のものを製作したいと考えてかなりの月日が経つが、いつになるのか、気が遠くなるなと…A^^;


 実質のところ、「Dave Weckl」のスタイルというのは、「Marcus Miller」と同じで、巷で天才といわれている演奏家のスタイルというのは、非常に個性的で他のパートと合わせ難い性質がある、といったデメリットがある。また、こういったスタイルは、オーソドックス性を求められるプレイには不向きとなる。効率性から考えると、習得するにコストが掛かりすぎる。しかし、この手の技術の蓄えは必ず役に立つ。

 幾分、本田総一郎氏気味のノウハウで、完成の出来合い物を初めに想定した上で試算しながら修正して行ながら、1つずつ組み立てていく構築の仕方だけど、ここが〔音大畑や芸術畑の人〕と〔商業経済学畑→理工学系独学中のサイエンスマニア〕との感覚の違い。

:物事についてどれが正しいといった解はない。結果的に良質の物を作る事が出来ればよいだけ。)

 今回のテーマを分類すれば、こういった技術というのは、サウンドを完成させる上でのノウハウの技術上において、ちょうど枝葉にあたる。

 重要なのはオーソドックスな基本中の基本の性質を失ってはならないというのが、Jazzの味噌。つまりは、頑固にもJAZZの性質を土台に置かなければならない。即ち、JAZZはその人個人の「生」であり「ありのままの姿」であり、「生き様」そのものだから、という話であるから、従って、個人においては、体内時計上のリズムとトーンの歯車にあたる音楽性は大切に維持しなければならない。

 だから、いわば、そこは、統計力学や統計科学、或いは、複雑系科学かな、『RD』の「#11」のような話(『純正律』・『音楽をやめたとき』)に随分と近くはなるが、求められる解は、計算科学的に考えてぼちぼちでいいかな…?

 …とまぁ、合理的に考えて、気長に独学しているけど、いつの事になるやら…(苦笑 A^^;

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2008年05月12日

等価分の代償

 一般的に、音楽というものは音を楽しむためにあるものではあるけれど、ClassicやJazzといった音の世界を探索し追求する世界を実現させるためには、必ず、それを実現させるためだけの『等価分の代償』というものが存在する。

 Jazzの世界では、想像を絶するような苦悩を積み重ねた生涯というのは日常茶飯事だが、Classicの世界で世界レベルで巨匠とされている名演奏の中には、それを感じさせないほど素晴らしい名曲が数多く存在する。

 しかし、何故そのようなサウンドが生まれるのか調べていけば、かならず、それを実現させるためだけの『等価分の代償』というものが存在していたことがわかる。


 その〔等価分の代償で成し得たもの〕は、時として人の生を救うことがある。

 自身の経験値では、その〔『等価分の代償』で成し得たもの〕は、胎児期の巨大なC-PTSDとトラウマで発生した消滅願望から自身を救ったが、それで得られたものは、〔『等価分の代償』で成し得たもの〕から得たものであって、『等価分の代償』出てきている。

 それは、中学生のときに映画館で観た『さよなら銀河鉄道999』のクライマックスシーン(生命維持のための「命のカプセル」が、何で出来ているか?)を思い出させるものであるが、現実的な実際の話、地球環境にある自然の流れを見れば、自然科学の分野で「流体的」という言葉が使われるように、その時々、姿形を変えてはめぐりめぐっている。

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嫌気が差し果てたとき

 なんの物欲もなく、私欲もなく――。その自身の内省にあるものが、何の煩悩も何つなく、人のことを考えて動いたとき、その動きを見た人物が自分がそうであるからといって決め付けられて、初めから嫌だと何度も言っている嫌なものを押し付けられれば誰でも嫌気が指し果てる。

 そんな時、J.S.Bachiの楽曲は、いたずらに感傷に浸る必要もなく、ただ強靭に音を拾って、ただ音色とリズムを見ればよく、それは心地よい。

 厳密に言えば、J.S.Bachiの楽曲は、なんの物欲も私欲もなく、何の煩悩も何一つなく、〔その楽曲内のトーンとリズムだけ〕、という物理のみの極限の世界を深く見て現さなければ、楽曲の良さが出てこない。

 もし、そこに私欲や煩悩が入れば、音の流れが歪んで濁ってしまって、とても聴けない。

 例えば、J.S.Bachiの楽曲には宗教音楽の作品も数多く手がけているが、大きく宗教的感覚に偏った感覚で演奏されたものには、宗教に縁がない者や宗教嫌いの者には(そこに宗教に依存して宗教に頼るご都合な私欲がある分)非常に聴き辛いものとなる。だが、純粋な音楽の世界を現したものであるものは、高山から湧き出た清水のように、非常に澄んでいて美しいので、たとえ大の宗教嫌いでも、物理に根ざしたものが現されてあるので、聴ける。

 その意味で、厳密な聖域であるといえ、清浄の極地でなければ、本来の楽曲の良さが表せない。

 気を使うところは、楽器の物性や特性に気をつけ、トーンとリズムに気遣えばよいだけである。


 勿論、この話は、自分自身が音楽の世界を探求して見ている音楽の世界であって、ある特定人物のものを批評するものではない。いってしまえば、自身の場合、目標があるので極端に厳しくなる。しかし、自身以外のものである場合、自身に無いものや、良いもののほうを優先して評価してしまう傾向にある。

 逆に、自身の目標について(それは生き辛さと対照的に現れるもので、環境ストレスにエントロピーを示せば、その可逆性で、胎児期に形成された修復パターンで、音楽の世界の探求もエントリピーを示すので)、自分自身がそれだけ究極なる世界を探求して見つけたものを現そうとするから、あまりにも目標が高くなってしまうことがよくある。このことから、結果的にラフマニノフがそうだったように、神経衰弱に陥りやすい性質にある。

 少なくとも、自分は、クラシックの世界でやっていけるような教育も受けていないし、サラブレッドでない。天才でもあるわけもない。しかも、自分は胎児期の頃からJazzに音楽のルーツを見ていたから、Jazzばかりしている。

 だから、日頃は良いものを集めて満足しているし、足りないものや無いものを自分で造ったりなどしている。

 また、先に、教育を受けていないという話をしたが、実質は、幼児期から児童期に掛けて幼稚園の担任にピアノを習っていただけにバイブル止まりだったから、一般教育で学ぶ基礎に少し毛が生えた程度のもので、殆どが独学になる。

 教育と一言で言っても、それは学歴とかいったものを言っているわけではなく、楽曲を製作する場合、特に、知識と技術、そしてノウハウといった物理的なところが直接影響してくるものであるんで、これを何も無いところから取得するのは、実にしんどい道のりとなる。

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2008年05月10日

なんだね…。

 実は、ピアノは幼稚園から習っていても小学校でやめてしまったので、例えば、長調・短調…といったものと、コード展開が繋がっていない。

 というのは、ギターなんかの場合、A、A minor、A minor flat、などのコードや、そこから導けるトニック(コードを形成している単音:単音の流れ)というのはわかる。

 しかし、そこから、長調・短調…といったものとは結びつかず、コードはコード、トニックはトニックで、そのコードの中で可能な単音の流れはわかっていても、それは体で感覚的に覚えているものだから、「じゃあ、ピアノでやりましょうかね」ってことになると、それまでの経験値上、ピアノは楽譜を見てまんま弾いていただけに終わっていて、Fusionで鍵盤をやっていたというのも、メンバー不足の穴埋め担当で、流れで何気なしやっていたから、厳密には、よく繋がっていない。

 DTMで製作してきたというのも、メロディーラインの流れで感覚的に漠然とやってきたものだから、「これじゃ、さすがにまずいよな」ということで、不足分の基礎固めに入っている。

 それまで、流れで感覚的に漠然とやってこられたというのも、おそらくギターで学んだ分が補ってきたんだろうけど、それだけで今までやってきたというのも、ま、笑うよな。

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予期せぬ出来事

 Jazzの場合、例えば、演奏者たちが集まったときに今いるメンバーでちょっとやろうか、なんてことになった場合には、バックで刻む程度のものなら、ピアノのテクニックは必要ない。だから、実際に、自分がVo活動していた頃、ちょっとセッションしようかとなって、メンバーが足りないとき、「ピアノを演奏してくれないか」と勧められたことがある。

 しかし、ある程度の高いレベルが求められた場合には、ピアノは目立ちやすいだけにテクニックが必要となる。

 とくに、DTMでプログラミングして作る場合には、ピアノで良し悪しが決まりやすく、音の効果の運命を左右しやすい。

 ピアノといえば、前に書いたことがあるように、まず、手が大きくて腕力と指の力がなくては、思うように演奏できない良い楽曲が数多くあるので、ピアノを諦めて、手が小さくても演奏が可能なギターに路線を変更した。この時は小学生の頃で、当然、このときには、DTMのプログラミングで音楽が作れるなどとは思っても見ないことである。

 DTMでクリエイターとしてプログラミングする場合、デフォルトで(脳をニュートラルにして)そのサウンドを聴くと、プログラミング上での楽器の音を現すテクニックが必要となる。それを満たさない限り、実際の楽器の演奏によるサウンドと肩を並べることが出来ない。

 リスナーとしての立場で、探索しながら追及して行く過程で、Jazzのサウンドをプログラミングする際に、ピアノの立ち位置や役目や求められる仕事について学ぶ必要があると考察してきたが、究極なる話、ちょっとした〔おかず〕を使うにも、Classicの巨匠並のテクニックがなければ、効率的で且つ合理的な効果を生み出して高いレベルのサウンドを作れないことがわかった。

 このことから、現在、ピアノの音に対する技術を磨くに必要なものを見つけに、音楽の海を泳いで濫作捨ているところである。

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2008年05月09日

音に対する解釈の仕方

 先日、音に対する解釈の仕方でいろいろ捏ねていた事について、実はそれなりのものがあって言っていることであるので、今回はそのことについて考えてみようと思う。

 それは、自分の場合、音楽を、音とリズムとその効果、と物理でとらえるからであって、一途にJazz一筋といっても、たとえば、自身を磨いたり開拓する場合、物事をよく理解するには…となるので、Classic の域まで及んでいるからだ。


 音に対する解釈の仕方は、実は、Classic を聴くことによって学んでいる。

 例えば、最初は聴きやすいものから聴いて、次に同じ楽曲のものを演奏した巨匠たちの演奏を聴く。

 すると様々な解釈があることがわかって、可能とされるものがどれぐらいあって、それぞれがどのようなスケールで演奏されているのかがわかる。

 オーケストラやピアノ協奏曲などは、サウンドの全体図や設計図として見て取れるので、演出面で非常に勉強になり、指揮者の解釈というのもわかるようになる。

 これらによって、様々な計算が出来るようになる。


 そんなことをやってきたから、〔「音楽を演奏している」見た目上の外面の音を演奏している〕のか、〔ある一つの楽曲を通して「自身」や「生」を生かしている〕のか、〔ある一つの楽曲を通して「自身」が見た「環境にあるもの」を描いている〕のか、などといったものもわかるし、〔その時どんな状態で演奏されていたのかもわかる。


 前に、煩悩や欲望などの利己的なものが歪ませて良い結果にならない、といったことがあるが、神聖な聖域を保った状態で演奏されたものは、最大限の威力を発揮する。

 そうったものには、右に出るのを許さず、ある独自の世界を確立し、誰もが認めるものとなる。

 たとえば、Sergei Rachmaninoff(参考:「セルゲイ・ラフマニノフ - Wikipedia」)は、楽器それぞれの物性や現象などを熟知し、トーンとリズムについてよく理解していた上で、楽曲として構築する上で立体的に音を組み立てて、「生」そのものを現していた。それも細々としたところまで、1つ1つ、精密に作られていて、知識や技術にとどまらずノウハウを駆使して生かされてあって落ち度がない。自身のピアノ演奏には、ありのままの自身の生を現している。

 水を現すのが非常にうまいのは、Arturo Benedetti Michelangeliで、頑固にも自身の音楽の世界を確立しようと努力してきた人物であるだけ、「Gspard de la nuit - Ondine」は、聴けば感動してしまうほど、凄すぎる演奏で、おそらく、そこに至るまでは、相当の血の滲む鍛錬の末に成しえたものだと思う。

 以前に、Jazzは「生」を現すもの、といったけれど、Classic でも、それを現しているものがある。

 そういったものには、万物を惹きつけるような強力な力がある。

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2008年05月08日

時には脳を休ませて…

 音楽の海の中で泳いでいる状態のままでいるのもいいかな…w。…などと思う。

 言わば、音楽の海の中で自身の内在している体内時計を見ながら、泳いでいくというもの。

 そうやっているうちに再生され再構築している機能が出てくるかもしれない。

 何てったって、生物の構造とはそんなものだから。

 人体のシステムでは睡眠で得られる現象がこれに当たる。
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2008年05月07日

それは、悲しい話。

 1930年代には、上手いのが溢れるほどゴロゴロいたわけで、相場は、1930〜50年代、ギリギリで60年代頃まで活躍していた演奏者。

 例えば、大御所の現在のメンバーのもので賞を取ったものを聴いても、当時に比べれば天と地の差がある。

 例えば、『Count Basie』(参考:「 カウント・ベイシー - Wikipedia」)もそうで、『Duke Ellington』(参考:「デューク・エリントン - Wikipedia」)もそうで、《黄金の全盛期時代》は、とかく凄い。

 Fats Wallerなんかは、映画の中でしか見たことがないから、30年代前後の実際の演奏を聴くと、そんなに上手かったのか、と、驚いてしまうほどだ。

 それは、JAZZがポピュラーだった頃と現在は違うから、生存競争が当時のように激しくない分だけ、というのもあるだろうけど、何といっても、JAZZはBluesなんかは特に躁鬱の結晶みたいなものだから、そのリズムも、トーンも、あの深みも、何度も血反吐を吐くような、辛い思いや、苦労しなきゃ、出ないところっていうのもある。

 それも、不条理に足で踏み潰されて生きなきゃならないような環境でなければ発生しない躁鬱の結晶だから、これが出来るっていうのは、それだけ、そんな思いをして生きてきたということになる。

 今の世代は、幸せすぎて、特有のあの性質は、絶えてしまったのかもしれない…。

 けれど、それはヒトにとっては、幸運な環境で生きてきたという現われの話なわけで、生み出す人材がいなくても、幸福な状態であることが良いに決まっているわけで、技術が発達しているから、今では、先人たちの残したものが聴ける。だから、物理的には、支障はない。

 しかし、気になる話…。ヒトは幸運な環境になるほど、野生の世界のように生存競争などで受ける選択圧がない環境で、自由に振舞うことが出来るようになるほど、何か大切なものを失っていっているような気がする。
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2008年05月03日

Jazz は、奥が深い

 リサーチ上で、いろいろとSound Dataを聴いているが、結局、落ち着くところは、典型的なJazzに至る。

 普段は、世界レベルのスケールで、できるだけ良いものをチョイスしては聴いているから、必然的に良いものばかりで、体内時計の違いや物性の違いで自分には出来ないものもざらにあるからか、自分はこれでいいんじゃないかとも思うようになる。

 それは、既にそれで頑張っている人がいて、自分にないものを満たしてくれるからであり、それなら、自分が出来ることで自分にしか出来ないことをやってしまおう、と考えるからだ。

 少なくとも、頂点に立つことを望みとして音楽をやってきたわけではなかった。生まれ育った貧困家庭から生じたDV環境で、生きていくための心の拠り所としていたのが音楽だったからで、演奏することでも「生」を生み出すことが可能であることを、3歳ながらも『Tom & Jerrey』を見てとったからだった。

 突き詰めてみれば、それは生まれてから幼児期に見つけて以来、ずっと一つのものを追ってきたような気がする。気がつけば「Classic=神聖」で「Jazz=生」になっていた。それは相対的に位置するものと認識しているが、切っ掛けは『Tom & Jerry』である。気がついたのは、中学生の頃だったと思う。

 誰だったか忘れたが、「Jazz=生」そのものだと言っていたJazzの演奏家がいた。そのコメントを見たときには既にそうなっていたから、その意味が痛いほどわかったのを覚えている。
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2008年05月01日

究極なる話

 「高校時代に好んで聴いていたもの」「ルーツを探る…!?」「
体内時計を探る」と見てきたけれども、「自分らしさとは」でも自身の性質と言うものを知っているあたり、自分らしい独自のベースというのは「ボトムライン−トリオものを製作する場合」で取り上げたものが一番しっくりいくものであることはわかってはいた。

 しかし、Jazzを行う場合、一番目立つのがPianoであるので、DTMで製作する場合には、必然的にPianoの技術を高めなければならなくなる。

 本来は、ピアノとベースとドラムで一つのベースとなるラインが築けるのだが、聴いた感じでは、ピアノとベースは相対的な位置するらしく、ドラムが統計して締めている形をとって成しているように聴こえる。

 だから、ベースとなる型は決まっていても、ピアノの場合は特に、発想転換のパターンをいくつも持っていなければ行き詰まってくるものであるし、ラインに従って対応するようにしなければらなないが、何といっても、ピアノといえば音数が多いだけあって、パターンが多く存在するから、ピアノだけでもパーツのパターンをいくつも作るには、非常に時間が掛かる。

 基本的には、「Red Garland(p) - Poul Chambers(b) - Arthur Taylor(dr)」のユニットをベースとしたサウンドが一番しっくりと行くもので、自己のベストにあたる。

 しかし、Jazzは常に環境に対応しながら進化しつづけなければならないジャンルのものであるので、先人が築き上げたもののまま甘んじるわけにも行かない。何故なら、それがJazzの性質だからであり、それがJazzの演奏者が背負わなければならない運命だからだ。


 究極なる話、突き詰めていけば、発想転換の天才である「Chick Corea」と環境に対応する能力の天才である「Herbie Hancock」を併せ持つことが必須だと考えている。

 逆に言えば、究極なるレベルを求めてしまえば、どちらが掛けてもいけないもので、Pianoには必須となる要素だと考えている。

 しかし、そうやって計算して解を求めるのは簡単だが、実際にそれを実現するのは、とんでもなく難しいことである。

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2008年04月30日

体内時計を探る

 目標をたてるにしても、自身の音楽性を良く知るにも、向上させるにも、新たに開拓するにも、自身の体内時計がどんなものか知る必要がある。

 自身の場合、マクロ・スケールでは、感覚的なものでいえば、Jazzが最もわかりやすい。

 何故なら、好んで聴いているものがJazzの要素が必ず内在してあるもので、Jazzが底辺になっているものばかり好んで聴いてきたからで、いまだにそのスタイルは何一つ変わっていないからである。

 しかし、あくまでも感覚的にざっとやってしまうのがJazzであって、即興が主としたスタイルで楽曲を元に自分なりのものをやってしまうのだから、本当に感覚的なものであって、実質上では非常に漠然としたものとなる。

 サウンドを聴く立場になれば、心地よいと感じられる体内時計に合うものを探せばよいから、リサーチする上で情報が入手できる環境であるなら、これは容易である。しかし、実際に自身がそれを実現しようとすると非常に難しいものとなる。

 殆ど地をさらけ出してやってしまうようなものがJazzであるので、例えば、自身を向上させる場合には、新たに畑を作って耕していく過程を踏まなければならないので、まず土台から作るしかない。このことから、いざ、それをやろうとすれば、時間がその分かかるだけ、非常に苦労するものとなる。

 また、Jazzといえば、体内時計がどうかで運命を大きく左右する。そういうわけで、音のノートの性質の研究の他に体内時計のリズムについて研究する必要が出てくる。

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ルーツを探る…!?

 昨夜捏ねていた「高校時代に好んで聴いていたもの」より。

 青少年期に好んで聴いていたものを軸に、子供の頃から好んでいたものや、社会人になって好んでいたものを探っていくと、その底辺にはJazzのスケールであり、黒人音楽特有のbluesがあるかどうかで選別されており、嗜好を左右しているものが体内時計と一致しているかどうかにあったことがわかる。

 現在、米国ではある牧師が演説で選挙に関する発言において「有色人種」や「ブラック(黒人)」などの人権差別的な発言をしたことについて社会問題となっているが、そんなのは見た目の話であって、どうでもよい話。

 自身の場合、Classicをいくら遡っても、それは古典物理学と同じく限りがあり、静止性といったスケール上で、可視で可能な状態から理論展開されているだけのものであって、勿論、グローバルなチャイコフスキーなどすばらしい音楽家はいるけれど、もっと上を行って、ラフマニノフとなれば、それは高度になってアインシュタインの一般相対性理論の予言のような複雑な展開になるけれども難しすぎる。専門的な音楽理論を学んでいないだけ理解が難しい。しかし触れることによって物性や性質を理解することは出来る。

 けれど、本当はもっと単純であるはずで、もっと原理的なものだと思う。むしろ、ガリレイ・ガリレオのような理論展開が必要だと考える。

 ClassicやJazzなどの枠を超え、音楽の世界の真髄を探るには、やはり、内在している体内時計や生物進化上の遺伝子を遡るしかないから、それに至る話。

 自分にとっては、Classicでは物足りないから、Jazzに至り、やがてはWorld Musicに至る。極限までたどれば、黒人が生み出したものになる。

 生物学においては、人類のルーツはアフリカで生息していた一人のゲノム・イブから成ると考えられているが、これは本当なのかもしれない。

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2008年04月20日

自分らしさとは

 なんだ…。

 実のところは、周囲から思われているほど、自分はそんなに綺麗なものではない。

 まだ救いの可能性がある場合は、何気なく手を差し伸べたりすることはよくある話だが、あんまり酷いと、見放して放ってしまうことなんてこともよくある話である。

 つまり、自分は聖人君主ではないってことねw

 報道なんかを見ていると、日本国内だけでも荒れている世の中に対し、何とも知れぬ国会といい、相変わらず曖昧な行政・自治団体といい、散々なものであるが、国際問題でも、オリンピックの聖火問題といい(これにおいては、中国で開催されるための聖火は、チベット弾圧が行われてきたため矛盾する行為として認められない)、中国政府のご都合主義に塗り固めた矛盾な言い分といい、ラマとはいえど政治かぶれのラマといい(一番の被害者は民間の楯になった僧侶たち)、中国から弾圧を受けているチベット問題といい(一番の被害は弱者のチベット市民たち)、チベット弾圧による国際批判に対する、政治被れで愚かな中国市民のボイコットといい(言い分は物事を知らない子供の駄々捏ねと同じだね。…ってか、常識という塗り固められた嘘を見抜いて真実を見ようとするまともなやついないの?)、至るところ、「人間原理って何や?」と思ってしまうのは、ごく自然の話。挙句の果てには、「この世の終わりやw」と、それらについての説教する気も全くなくなり、解離現象で音楽に浸ることがしばしばある。

 新たに選曲を選ぶだの、製作途中のものだの聴いていると、〔自分にはガーシュインのナンバーをやるのが適当であって、躁鬱の激しいナンバーが多いガーシュインを地でやれるのは、躁鬱を併せ持つ自分しか出来ないのではないか?〕…と、脳内では妙な錯覚にとらわれるときがある。

 こんなときは、喜ぶべきか、悲しむべきか、ジャック・スパローの如く、躁鬱で、思わず、躁に笑ってしまう。

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posted by crossover at 07:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 取り留めのない戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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