2008年08月25日

Jazz Drams

 DTM製作する過程上の話では、Jazzのドラムのパートは、セミプロ当事に地元のプロ中の大御所で体感で学んだので、オーソドックスなプレイは学んでいるので、その経験値を元に製作している。

 ずっとスタンダードや古典ものに関わるというのもしんどいもので、ビバップやハードバップがしたくなるのは、認知行動上では、Jazzの歴史の流れに沿っている、と言えるのかもしれない。

 毎回思うのが、Jazzの名曲としてオムニバスで挙がっているようなスタンダードな名曲程度は、やろうと思えば出来るんだけど、何分、腰が重くて製作し切れていない。

 Jazzのドラムのパートについては、20歳になりたての頃、Fusionバンドで活動した頃に出会った「Dave Weckl小僧(地元の工大生)」にウンチクを教えてもらった事が切っ掛けで、その学習が利点となって、セミプロ当事はドラムパートの技術を見て覚えた。

 DTM製作の過程では、ドラムパートのレベルをUPしようと考えれば、「Dave Weckl」の技術が欲しいところ…。そんなことから、気が向いたときにYou Tubeの映像や手持ちのSound dateを元に、そこそこ独学中。

### Date Base ###
Dave Weckl - Wikipedia, the free encyclopedia
Dave Weckl - Wikipédia, a enciclopédia livre

 そんな中で毎回思うところ。ウェックルのドラムには、やはり、パティトッチのベースがとてもマッチして最高なんだけれど、何分、データが少ない。

 ラロ・シフリンの「マニックス」のような当事のオリジナルサウンドと同類のものを製作したいと考えてかなりの月日が経つが、いつになるのか、気が遠くなるなと…A^^;


 実質のところ、「Dave Weckl」のスタイルというのは、「Marcus Miller」と同じで、巷で天才といわれている演奏家のスタイルというのは、非常に個性的で他のパートと合わせ難い性質がある、といったデメリットがある。また、こういったスタイルは、オーソドックス性を求められるプレイには不向きとなる。効率性から考えると、習得するにコストが掛かりすぎる。しかし、この手の技術の蓄えは必ず役に立つ。

 幾分、本田総一郎氏気味のノウハウで、完成の出来合い物を初めに想定した上で試算しながら修正して行ながら、1つずつ組み立てていく構築の仕方だけど、ここが〔音大畑や芸術畑の人〕と〔商業経済学畑→理工学系独学中のサイエンスマニア〕との感覚の違い。

:物事についてどれが正しいといった解はない。結果的に良質の物を作る事が出来ればよいだけ。)

 今回のテーマを分類すれば、こういった技術というのは、サウンドを完成させる上でのノウハウの技術上において、ちょうど枝葉にあたる。

 重要なのはオーソドックスな基本中の基本の性質を失ってはならないというのが、Jazzの味噌。つまりは、頑固にもJAZZの性質を土台に置かなければならない。即ち、JAZZはその人個人の「生」であり「ありのままの姿」であり、「生き様」そのものだから、という話であるから、従って、個人においては、体内時計上のリズムとトーンの歯車にあたる音楽性は大切に維持しなければならない。

 だから、いわば、そこは、統計力学や統計科学、或いは、複雑系科学かな、『RD』の「#11」のような話(『純正律』・『音楽をやめたとき』)に随分と近くはなるが、求められる解は、計算科学的に考えてぼちぼちでいいかな…?

 …とまぁ、合理的に考えて、気長に独学しているけど、いつの事になるやら…(苦笑 A^^;

posted by crossover at 18:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 取り留めのない戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あービックリした…

 自分は男性もの漫画しか目を通さない人間なのでテレビを見て驚いた話。

 現在、ANIMAXで放送されている『のだめカンタービレ』(参考:『のだめカンタービレ - Wikipedia』)。

 本作品は自分がモデルになった作品ではない。

 しかし、Wkiには、下記のような記述がある。

### 備考より抜粋 ###

 コミックス内でリアルのだめと呼ばれているのは、主人公のモデルの野田恵という女性。以前作者である二ノ宮が運営していたBBS上に、汚い部屋でピアノ演奏する写真を投稿し、本作品の主人公のモデルとなった。現在リアルのだめ嬢は福岡にて子供向けのピアノ講師をしている。

 自分自身と実際にモデルになった人物と勘違いされると「こりゃ大変だ」と思い、そうではないってことを書いてみる。

 自分は確かに福岡に在住しているが、JAZZ畑でセミプロやっていた人間で、現在は11年前よりアマチュア劇団の音響を担当したのが切っ掛けでDTMクリエーターをしている(サイエンスマニアの主婦)。

 …といっても、サイエンスマニアの虫が手伝って日頃は、論文や学術のテキストに埋もれての生活で、その世界にどっぷりなので、DTM製作については、ほとんど気まぐれで忘れた頃にちょっとしか作っておらず、休みが非常に多いんだけどね…A^^;

 金になるんなら作るだろうけど、なにぶん、シェアがない…。JAZZといえば、プレジデント系や初老以上の高齢者が好む枠でもあるんで、不景気だと尚更シェアがない。だから作っていないという話。

 だから、人違いしないでね…^^;

posted by crossover at 17:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月12日

等価分の代償

 一般的に、音楽というものは音を楽しむためにあるものではあるけれど、ClassicやJazzといった音の世界を探索し追求する世界を実現させるためには、必ず、それを実現させるためだけの『等価分の代償』というものが存在する。

 Jazzの世界では、想像を絶するような苦悩を積み重ねた生涯というのは日常茶飯事だが、Classicの世界で世界レベルで巨匠とされている名演奏の中には、それを感じさせないほど素晴らしい名曲が数多く存在する。

 しかし、何故そのようなサウンドが生まれるのか調べていけば、かならず、それを実現させるためだけの『等価分の代償』というものが存在していたことがわかる。


 その〔等価分の代償で成し得たもの〕は、時として人の生を救うことがある。

 自身の経験値では、その〔『等価分の代償』で成し得たもの〕は、胎児期の巨大なC-PTSDとトラウマで発生した消滅願望から自身を救ったが、それで得られたものは、〔『等価分の代償』で成し得たもの〕から得たものであって、『等価分の代償』出てきている。

 それは、中学生のときに映画館で観た『さよなら銀河鉄道999』のクライマックスシーン(生命維持のための「命のカプセル」が、何で出来ているか?)を思い出させるものであるが、現実的な実際の話、地球環境にある自然の流れを見れば、自然科学の分野で「流体的」という言葉が使われるように、その時々、姿形を変えてはめぐりめぐっている。

続きを読む
posted by crossover at 19:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 取り留めのない戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

嫌気が差し果てたとき

 なんの物欲もなく、私欲もなく――。その自身の内省にあるものが、何の煩悩も何つなく、人のことを考えて動いたとき、その動きを見た人物が自分がそうであるからといって決め付けられて、初めから嫌だと何度も言っている嫌なものを押し付けられれば誰でも嫌気が指し果てる。

 そんな時、J.S.Bachiの楽曲は、いたずらに感傷に浸る必要もなく、ただ強靭に音を拾って、ただ音色とリズムを見ればよく、それは心地よい。

 厳密に言えば、J.S.Bachiの楽曲は、なんの物欲も私欲もなく、何の煩悩も何一つなく、〔その楽曲内のトーンとリズムだけ〕、という物理のみの極限の世界を深く見て現さなければ、楽曲の良さが出てこない。

 もし、そこに私欲や煩悩が入れば、音の流れが歪んで濁ってしまって、とても聴けない。

 例えば、J.S.Bachiの楽曲には宗教音楽の作品も数多く手がけているが、大きく宗教的感覚に偏った感覚で演奏されたものには、宗教に縁がない者や宗教嫌いの者には(そこに宗教に依存して宗教に頼るご都合な私欲がある分)非常に聴き辛いものとなる。だが、純粋な音楽の世界を現したものであるものは、高山から湧き出た清水のように、非常に澄んでいて美しいので、たとえ大の宗教嫌いでも、物理に根ざしたものが現されてあるので、聴ける。

 その意味で、厳密な聖域であるといえ、清浄の極地でなければ、本来の楽曲の良さが表せない。

 気を使うところは、楽器の物性や特性に気をつけ、トーンとリズムに気遣えばよいだけである。


 勿論、この話は、自分自身が音楽の世界を探求して見ている音楽の世界であって、ある特定人物のものを批評するものではない。いってしまえば、自身の場合、目標があるので極端に厳しくなる。しかし、自身以外のものである場合、自身に無いものや、良いもののほうを優先して評価してしまう傾向にある。

 逆に、自身の目標について(それは生き辛さと対照的に現れるもので、環境ストレスにエントロピーを示せば、その可逆性で、胎児期に形成された修復パターンで、音楽の世界の探求もエントリピーを示すので)、自分自身がそれだけ究極なる世界を探求して見つけたものを現そうとするから、あまりにも目標が高くなってしまうことがよくある。このことから、結果的にラフマニノフがそうだったように、神経衰弱に陥りやすい性質にある。

 少なくとも、自分は、クラシックの世界でやっていけるような教育も受けていないし、サラブレッドでない。天才でもあるわけもない。しかも、自分は胎児期の頃からJazzに音楽のルーツを見ていたから、Jazzばかりしている。

 だから、日頃は良いものを集めて満足しているし、足りないものや無いものを自分で造ったりなどしている。

 また、先に、教育を受けていないという話をしたが、実質は、幼児期から児童期に掛けて幼稚園の担任にピアノを習っていただけにバイブル止まりだったから、一般教育で学ぶ基礎に少し毛が生えた程度のもので、殆どが独学になる。

 教育と一言で言っても、それは学歴とかいったものを言っているわけではなく、楽曲を製作する場合、特に、知識と技術、そしてノウハウといった物理的なところが直接影響してくるものであるんで、これを何も無いところから取得するのは、実にしんどい道のりとなる。

続きを読む
posted by crossover at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 取り留めのない戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

静を制す

 …というのも、良いものだと、最近は富に思う。

 Chopinの作品といえば、手持ちのSound Dateでは、現在のところ、「Sergei Rachmaninoff」「Vladimir Horowitz」「Claudio Arrau」「アルトゥール・ルービンシュタイン」…といった顔ぶれのものがある。いずれも巨匠クラスのもの。

 一番初めに入手したのは、「Claudio Arrau」のものだったが、入手しにくかった「Sergei Rachmaninoff」のサウンドが手に入るまでは「Vladimir Horowitz」の演奏を好んで聴いていた。「Sergei Rachmaninoff」のデータが入手出来てからは、そればかり好んで聴くようになったが、解釈の仕方や演奏の仕方など、学んだり、鍛えたり、自身を磨いたりするのに、ルービン・シュタインの演奏したものも入手して、定期的に聴くようになった。

 ここ最近は、好んで「Claudio Arrau」を好んで聴くようになった。「Sergei Rachmaninoff」の演奏を好んで聴くとの同じくらいの量になる。

 先日の『なんだね…。』で、名盤の一つとされる、Claudio Arrauの『Chopin : Preludes/Impromptus』という作品集を取り上げらが、もう一つ、『Chopin・Nocturnes - Claudio Arrau』という名盤が手持ちにある。

 「鍵盤の詩人」などと呼ばれて親しまれているFrederic F. Chopin。
ノクターンは美しい旋律と詩的で繊細な情緒溢れる名曲である。

 ロマン派の巨匠で知られるArrauの演奏は、静的で、ゆったりとしたテンポをとり、極めて濃やかなニュアンスに富んだ表情を表しながら、大きなスケールで濃厚なロマンの世界を醸し出している。

 ここでもいたずらに感傷的に浸らず、いたずらに色に走らず、温かみを感じさせる名演奏となっている。

 たとえば、「Nocturnes No.20 in C sharp minor, Op.55 No.2」といった楽曲でも、春の兆しでツララの氷が溶けて水が落ちるように、或いは、雪で埋もれていた大地に雪が溶けて川に流れていくようにも聴こえ、それは静かだか、なぜか暖かい。
posted by crossover at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月11日

偶然の出来事

 前に『ごっつぁんです!』で取り上げた、『ULTRAMAN JAZZ LIVE - Toshiki Nunokawa UJQ』。

 気に入ったナンバーだけWMAをDLするか、アルバムを購入するか迷いに迷った挙句、思い切って購入してみることにしたのが、今朝に到着。悩みに悩んだ末、やっとのことで入手が出来た。

 たまたま見つけたもので「特捜隊の歌」に惹かれて購入したら大当たりだった。

 一般的には、JazzのLive演奏である場合、刺激的な演奏をしてしまいがちなものだが、ナンバーが子供の頃に見て育った特撮のSound TrackをJazzで演奏しているためか、耳あたり、軽くエレガントに納めているので、飽きることなくJazz演奏を聴ける。ジャンルとしてはCool Jazzにあたる。

 『ごっつぁんです!』でも、その凄さは書いたが、全ナンバーを聴くと、誰もが出来ない物凄いことを、いとも簡単にサラッと軽くこなしているのがわかる、度肝を抜かれる名演奏だった。

続きを読む
posted by crossover at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月10日

なんだね…。

 実は、ピアノは幼稚園から習っていても小学校でやめてしまったので、例えば、長調・短調…といったものと、コード展開が繋がっていない。

 というのは、ギターなんかの場合、A、A minor、A minor flat、などのコードや、そこから導けるトニック(コードを形成している単音:単音の流れ)というのはわかる。

 しかし、そこから、長調・短調…といったものとは結びつかず、コードはコード、トニックはトニックで、そのコードの中で可能な単音の流れはわかっていても、それは体で感覚的に覚えているものだから、「じゃあ、ピアノでやりましょうかね」ってことになると、それまでの経験値上、ピアノは楽譜を見てまんま弾いていただけに終わっていて、Fusionで鍵盤をやっていたというのも、メンバー不足の穴埋め担当で、流れで何気なしやっていたから、厳密には、よく繋がっていない。

 DTMで製作してきたというのも、メロディーラインの流れで感覚的に漠然とやってきたものだから、「これじゃ、さすがにまずいよな」ということで、不足分の基礎固めに入っている。

 それまで、流れで感覚的に漠然とやってこられたというのも、おそらくギターで学んだ分が補ってきたんだろうけど、それだけで今までやってきたというのも、ま、笑うよな。

続きを読む
posted by crossover at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 取り留めのない戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

予期せぬ出来事

 Jazzの場合、例えば、演奏者たちが集まったときに今いるメンバーでちょっとやろうか、なんてことになった場合には、バックで刻む程度のものなら、ピアノのテクニックは必要ない。だから、実際に、自分がVo活動していた頃、ちょっとセッションしようかとなって、メンバーが足りないとき、「ピアノを演奏してくれないか」と勧められたことがある。

 しかし、ある程度の高いレベルが求められた場合には、ピアノは目立ちやすいだけにテクニックが必要となる。

 とくに、DTMでプログラミングして作る場合には、ピアノで良し悪しが決まりやすく、音の効果の運命を左右しやすい。

 ピアノといえば、前に書いたことがあるように、まず、手が大きくて腕力と指の力がなくては、思うように演奏できない良い楽曲が数多くあるので、ピアノを諦めて、手が小さくても演奏が可能なギターに路線を変更した。この時は小学生の頃で、当然、このときには、DTMのプログラミングで音楽が作れるなどとは思っても見ないことである。

 DTMでクリエイターとしてプログラミングする場合、デフォルトで(脳をニュートラルにして)そのサウンドを聴くと、プログラミング上での楽器の音を現すテクニックが必要となる。それを満たさない限り、実際の楽器の演奏によるサウンドと肩を並べることが出来ない。

 リスナーとしての立場で、探索しながら追及して行く過程で、Jazzのサウンドをプログラミングする際に、ピアノの立ち位置や役目や求められる仕事について学ぶ必要があると考察してきたが、究極なる話、ちょっとした〔おかず〕を使うにも、Classicの巨匠並のテクニックがなければ、効率的で且つ合理的な効果を生み出して高いレベルのサウンドを作れないことがわかった。

 このことから、現在、ピアノの音に対する技術を磨くに必要なものを見つけに、音楽の海を泳いで濫作捨ているところである。

続きを読む
posted by crossover at 17:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 取り留めのない戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

聴力と脳を鍛えるために

 定期的だが、手持ちにある、Alexis Weissenbergの「J.S. Bach:PARTITAS」(二枚組み)を聴いて、すべての音を広い、音の強弱や長さを認識させるようにしている。

 また、これには、左右のピアノの加減の計算等でも訓練に役立つ。

 特に「Partita No1 in B flat major, BWV.825 -Giga」などのUPテンポでの連打する楽曲はラフマニノフの楽曲の音を拾えるようにするための良い訓練になる。

 実はこれをやるには軟くない。しかし、ラフマニノフの精密な楽曲より容易で不可能ではない。

 いわば、聖徳太子に一歩近づけるかなw …と、訓練が必要なときに聴いている。


 実は、このアルバム自体も訓練の賜物で成し得たもので、Alexis Weissenbergといえば、強靭なの努力家で知られ、鋼鉄の音色を持つと謳われている。

 その鋼鉄の音色を強靭な脳と鋼鉄の耳にして聴くわけだが、おかげで音が拾いやすく、分析もしやすく、かなり勉強になる。

 DTMの場合、聴力を鍛えて脳を最大限に鍛えればよいだけだから、腕力や指の力など鍛える必要もなく、鍵盤を叩きすぎて血豆が破けて血を出す必要もないわけで、肉体労働が伴わないだけその分、楽ではある。

続きを読む
posted by crossover at 01:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月09日

音に対する解釈の仕方

 先日、音に対する解釈の仕方でいろいろ捏ねていた事について、実はそれなりのものがあって言っていることであるので、今回はそのことについて考えてみようと思う。

 それは、自分の場合、音楽を、音とリズムとその効果、と物理でとらえるからであって、一途にJazz一筋といっても、たとえば、自身を磨いたり開拓する場合、物事をよく理解するには…となるので、Classic の域まで及んでいるからだ。


 音に対する解釈の仕方は、実は、Classic を聴くことによって学んでいる。

 例えば、最初は聴きやすいものから聴いて、次に同じ楽曲のものを演奏した巨匠たちの演奏を聴く。

 すると様々な解釈があることがわかって、可能とされるものがどれぐらいあって、それぞれがどのようなスケールで演奏されているのかがわかる。

 オーケストラやピアノ協奏曲などは、サウンドの全体図や設計図として見て取れるので、演出面で非常に勉強になり、指揮者の解釈というのもわかるようになる。

 これらによって、様々な計算が出来るようになる。


 そんなことをやってきたから、〔「音楽を演奏している」見た目上の外面の音を演奏している〕のか、〔ある一つの楽曲を通して「自身」や「生」を生かしている〕のか、〔ある一つの楽曲を通して「自身」が見た「環境にあるもの」を描いている〕のか、などといったものもわかるし、〔その時どんな状態で演奏されていたのかもわかる。


 前に、煩悩や欲望などの利己的なものが歪ませて良い結果にならない、といったことがあるが、神聖な聖域を保った状態で演奏されたものは、最大限の威力を発揮する。

 そうったものには、右に出るのを許さず、ある独自の世界を確立し、誰もが認めるものとなる。

 たとえば、Sergei Rachmaninoff(参考:「セルゲイ・ラフマニノフ - Wikipedia」)は、楽器それぞれの物性や現象などを熟知し、トーンとリズムについてよく理解していた上で、楽曲として構築する上で立体的に音を組み立てて、「生」そのものを現していた。それも細々としたところまで、1つ1つ、精密に作られていて、知識や技術にとどまらずノウハウを駆使して生かされてあって落ち度がない。自身のピアノ演奏には、ありのままの自身の生を現している。

 水を現すのが非常にうまいのは、Arturo Benedetti Michelangeliで、頑固にも自身の音楽の世界を確立しようと努力してきた人物であるだけ、「Gspard de la nuit - Ondine」は、聴けば感動してしまうほど、凄すぎる演奏で、おそらく、そこに至るまでは、相当の血の滲む鍛錬の末に成しえたものだと思う。

 以前に、Jazzは「生」を現すもの、といったけれど、Classic でも、それを現しているものがある。

 そういったものには、万物を惹きつけるような強力な力がある。

続きを読む
posted by crossover at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 取り留めのない戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。